貴重資料コレクション展を開催しています その8
2014年01月26日
佐賀県立図書館 at 17:57 | Comments(2) | I Love SAGA
こんにちは。
今回は「秋山兄弟と柴五郎」について紹介します。
【内容】
□秋山好古・真之の書簡
小説『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の主人公として知られている秋山好古(1859~1930 松山出身)と秋山真之(1868~1918)の佐賀との関わりは佐賀市(諸富町寺井津)出身の塚原嘉一郎(1878~1960)が秋山好古の長女與志と結婚したことによりますが、三井物産上海支店に在籍していた塚原は、辛亥革命(1911)前後の中国における資源開発を巡って好古の長女との結婚前から真之と深い関わりを持っていました。このため、塚原家には秋山兄弟からの書簡26通をはじめとする多くの資料が残されていました。
秋山好古・真之の書簡については、以下の「佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要」第6号(2012年3月刊行)に「秋山家書簡の紹介」として報告されています。
http://www.chiikigaku.saga-u.ac.jp/pdf/Ishibashi_1.pdf
□柴五郎の書簡
映画『北京の55日』でも知られる「義和団の乱」(1900)の籠城戦の活躍により欧米で広く知られる最初の日本人となった柴五郎(1860~1945 会津出身)と佐賀との関わりは佐賀藩家老倉町鍋島家のミツ(10代藩主鍋島直正姪 鍋島半八郎妹 当時31歳)を明治32年後妻に迎えたことに始まります。再婚してすぐに北京に赴任し、「義和団の乱」に遭遇しています。柴には当時7歳の娘みつがいたため、ミツは花子と改名したとされています。柴はミツの実家である倉町鍋島家の兄嫁芳子、甥透に何かと書簡を書き送っています。
秋山兄弟と柴は、維新では「朝敵」側であった藩の出身というだけではなく、好古とは陸軍士官学校の同期、真之とは米西戦争の観戦武官としてキューバで一緒だったという不思議な縁があります。
【展示資料】
・秋山好古・真之書簡(塚原嘉一郎宛)
(好古葉書)
・大正6年(1917)4月29日付けは、朝鮮駐劄軍司令官であった好古から與志・嘉一郎宛で、嘉一郎弟孫一が満州視察に赴くこと、父も検閲のため満州に向かうことを伝える。末尾に「用事ナケレド一寸一筆」とあり。
・大正7年(1918)2月3日付けは、弟真之危篤を伝える電報について嘉一郎への返信。
・昭和4年(1929)1月4日付けは、賀状への返信と嘉一郎弟篤次の急逝に対する驚きと励まし。
(真之葉書)
・大正6年(1917)3月29日付けは、軍艦日進に添乗し、当分横須賀に泊在しているとの通知。
・大正6年(1917)5月24日付けは、真之自身の病状(虫垂炎)は歩行を許されるまで軽快したことと妻季子が胃痙のため終夜苦しんだことを伝えている。
・柴五郎書簡(鍋島芳子宛)
・宛先の鍋島芳子は柴五郎の後妻みつの兄嫁。いずれもご機嫌伺いの内容で、女性に対する手紙のためあえて仮名文字で書き送っている。
・昭和8年(1933)11月12日付けは、リンゴを送ることの連絡。
・昭和9年(1934)7月27日付けは、佐賀からの贈り物(当地の名物)に対する礼状。
「秋山兄弟と柴五郎」の展示状況
*展示している秋山好古・真之書簡は、以下の佐賀県立図書館データベースで全文公開しています。展示は5点のみですが、データベースでは26点公開しています。
http://www.sagakentosyo.jp/komonjo/php/menu.php
*柴五郎の書簡の閲覧については事前の手続きが必要です。詳しくは以下をご覧下さい。
http://www.sagakentosyo.jp/info1.html
今回は「秋山兄弟と柴五郎」について紹介します。
【内容】
□秋山好古・真之の書簡
小説『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の主人公として知られている秋山好古(1859~1930 松山出身)と秋山真之(1868~1918)の佐賀との関わりは佐賀市(諸富町寺井津)出身の塚原嘉一郎(1878~1960)が秋山好古の長女與志と結婚したことによりますが、三井物産上海支店に在籍していた塚原は、辛亥革命(1911)前後の中国における資源開発を巡って好古の長女との結婚前から真之と深い関わりを持っていました。このため、塚原家には秋山兄弟からの書簡26通をはじめとする多くの資料が残されていました。
秋山好古・真之の書簡については、以下の「佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要」第6号(2012年3月刊行)に「秋山家書簡の紹介」として報告されています。
http://www.chiikigaku.saga-u.ac.jp/pdf/Ishibashi_1.pdf
□柴五郎の書簡
映画『北京の55日』でも知られる「義和団の乱」(1900)の籠城戦の活躍により欧米で広く知られる最初の日本人となった柴五郎(1860~1945 会津出身)と佐賀との関わりは佐賀藩家老倉町鍋島家のミツ(10代藩主鍋島直正姪 鍋島半八郎妹 当時31歳)を明治32年後妻に迎えたことに始まります。再婚してすぐに北京に赴任し、「義和団の乱」に遭遇しています。柴には当時7歳の娘みつがいたため、ミツは花子と改名したとされています。柴はミツの実家である倉町鍋島家の兄嫁芳子、甥透に何かと書簡を書き送っています。
秋山兄弟と柴は、維新では「朝敵」側であった藩の出身というだけではなく、好古とは陸軍士官学校の同期、真之とは米西戦争の観戦武官としてキューバで一緒だったという不思議な縁があります。
【展示資料】
・秋山好古・真之書簡(塚原嘉一郎宛)
(好古葉書)
・大正6年(1917)4月29日付けは、朝鮮駐劄軍司令官であった好古から與志・嘉一郎宛で、嘉一郎弟孫一が満州視察に赴くこと、父も検閲のため満州に向かうことを伝える。末尾に「用事ナケレド一寸一筆」とあり。
・大正7年(1918)2月3日付けは、弟真之危篤を伝える電報について嘉一郎への返信。
・昭和4年(1929)1月4日付けは、賀状への返信と嘉一郎弟篤次の急逝に対する驚きと励まし。
(真之葉書)
・大正6年(1917)3月29日付けは、軍艦日進に添乗し、当分横須賀に泊在しているとの通知。
・大正6年(1917)5月24日付けは、真之自身の病状(虫垂炎)は歩行を許されるまで軽快したことと妻季子が胃痙のため終夜苦しんだことを伝えている。
・柴五郎書簡(鍋島芳子宛)
・宛先の鍋島芳子は柴五郎の後妻みつの兄嫁。いずれもご機嫌伺いの内容で、女性に対する手紙のためあえて仮名文字で書き送っている。
・昭和8年(1933)11月12日付けは、リンゴを送ることの連絡。
・昭和9年(1934)7月27日付けは、佐賀からの贈り物(当地の名物)に対する礼状。
「秋山兄弟と柴五郎」の展示状況
*展示している秋山好古・真之書簡は、以下の佐賀県立図書館データベースで全文公開しています。展示は5点のみですが、データベースでは26点公開しています。
http://www.sagakentosyo.jp/komonjo/php/menu.php
*柴五郎の書簡の閲覧については事前の手続きが必要です。詳しくは以下をご覧下さい。
http://www.sagakentosyo.jp/info1.html
この記事へのコメント
県立図書館の「お宝大公開」すばらしい企画と思います。
特に元禄肥前一国絵図、江藤新平辞令など、遠い昔の歴史が現物として眼前に迫ってくる感じがしました。
簡潔ながら、周辺背景まで掘り下げた正確な考証コメント、大変勉強になりました。
できれば、展示期間をもっと長くとの思いがありますが、ぜひ考証コメントを含めた図録発行を切に希望します。
特に元禄肥前一国絵図、江藤新平辞令など、遠い昔の歴史が現物として眼前に迫ってくる感じがしました。
簡潔ながら、周辺背景まで掘り下げた正確な考証コメント、大変勉強になりました。
できれば、展示期間をもっと長くとの思いがありますが、ぜひ考証コメントを含めた図録発行を切に希望します。
Posted by 片倉日龍雄 at 2014年01月26日 20:31
貴重資料コレクション展にお越し下さった上、身に余るお言葉をいただきありがとうございました。
ご提案の図録発行は本館所蔵資料を知っていただく手段として有効なものですが、今回は図録作成までの計画はなかったため、本ブログで展示内容及び展示資料の紹介を8回に分けてさせていただきました。また、本館データベースでの公開状況や展示資料の閲覧方法についてもご案内しているところです。
今後、企画展を計画する場合には、何らかの図録等作成についても検討させていただきたいと思います。
ご提案の図録発行は本館所蔵資料を知っていただく手段として有効なものですが、今回は図録作成までの計画はなかったため、本ブログで展示内容及び展示資料の紹介を8回に分けてさせていただきました。また、本館データベースでの公開状況や展示資料の閲覧方法についてもご案内しているところです。
今後、企画展を計画する場合には、何らかの図録等作成についても検討させていただきたいと思います。
Posted by 佐賀県立図書館 at 2014年01月28日 19:42
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